人に、会社に、歴史あり。
イトコーの目指す「自然とともに、愉しく健康的に暮らす家」という考え方は、どのようにして生まれたのか?・・・・
その歴史を、創業当時からひもといていきます。
1950年(昭和25年)
「伊藤建築」創業
その歴史は現相談役・伊藤正雄が大工だった父・三千三(みちぞう)に弟子入りしたことに始まる。
きっかけは父の薦めだった。
「戦後、海軍航空隊から帰還し、しばらく色々なことをしたのですが、これといって将来につながる見通しはありませんでした。それを見ていた父から手に職をつけた方がいいと薦められて弟子入りしたのですが、手取り足取り教えてくれるわけではありません。父の仕事を必死で見ながら覚えました」
正雄は当時をそう振り返る。
戦争中に激しい空襲に遭った豊橋周辺は焼け野原で、1軒建てるとその隣の1軒、そしてまた隣へと仕事は途切れなく続いた。
正雄は、父や先輩たちの仕事を傍らで見ながら、朝4時半から夜8時まで休憩時間にも道具の手入れをするなど懸命に働いた。
その仕事ぶりは行く先々で評判になったという。
1954年(昭和29年)
正雄の父・三千三が死去
だが1954年(昭和29年)、正雄が一人前になる前に父が病に倒れ亡くなってしまう。
このとき長男の正雄は29歳だったが、下には5人の弟妹がおり、一番下の弟は小学生。
また、この年に自身の長男(現在の会長・伊藤正幸)も生まれており、母と弟妹、妻子の将来が自分の肩にかかっていた。
1960年(昭和35年)
拠点を豊川に移す
まず、地域の職業訓練所へ行って大工見習いを4人雇い入れた。
さらに、腕のいい大工が1人来てくれることになると見習い4人の指導を任せ、自分は見積もりや営業に専念した。
戦後復興が続く中、個人の住宅はもちろん市営住宅も数多く建て、実績を積んでいった。
こうして正雄は弟たちを無事に卒業させたばかりでなく、4人の見習い大工を大工組合の夜間学校に通わせ、立派な職人へと育て上げた。
正雄はこの後も大工の育成に力を注ぎ続け、それが現在のイトコーの技術力へとつながっている。
そうして、大工を10人ほど抱えるようになった1960年(昭和35年)、伊藤建築は豊川へ拠点を移した。
「豊川は父が海軍工廠(こうしょう・軍隊直属の軍需工場のこと)の建設工事に携わったという縁がありましたし、豊橋という大きな町に隣接していながら豊かな自然が広がる地域で、これからよい街になっていくに違いないと思いました」
その見通しは的中し、みるみるうちに人口が増え、たくさんの家を建てさせていただくことになる。
1963年(昭和38年)
「伊藤工務店」を設立
正雄は次第に大工仕事だけでなく建築工事全体を請け負い始め、伊藤工務店を設立する。
1970年(昭和45年)
「伊藤工務店」を法人化
大工修行に始まって、工務店としてお客様から信頼していただくようになるまでの長い道のりを、正雄はそう振り返る。
「大きな仕事をいただくと嬉しい一方で、身の丈以上の仕事には苦労もつきものでした。でも、人も会社も大きいことをやらないと伸びませんから。歯を食いしばって一歩一歩進んできました」
お客様、家族、弟子、社員、地域・・・。
背負うものが次第に大きくなっていく中で、正雄は確かな仕事を積み重ね、イトコーの礎を築いていく。
1980年(昭和55年)
現会長・伊藤正幸が「伊藤工務店」に入社
「物心ついたときには、自宅に父の弟子が5人ほど住み込んでいました」という正幸にとって、小さいときから自宅の作業場で見る大工の仕事に憧れだった。
小学生の頃には鑿を研いだり、木の切れ端でちょっとしたものをつくっていたという。
その子どもの頃の志のままに大工になるつもりで工業高校の建築科に進んだが、3年生の時に父の知人から言われた「お前みたいな小さいのが通し柱を担げるのか。大学に行って設計を勉強した方がいい」というひと言をきっかけに、大学進学を志す。
こうして大学へ進んだ正幸は、建築を学ぶ一方で、身体を鍛えるために少林寺拳法部に入部。
北陸学生大会で優勝し、全国でもベスト8になるなど活躍する。
少林寺では、実業団として全国最優秀賞を獲得し、中国広州で奉納演武を行う機会にも恵まれる。
そんな公私ともに充実した毎日を送っていた正幸のもとに、多忙で身体を壊した父・正雄が倒れたという知らせが届く。
まだ入社2年目でこれから学ぶことも多かったが、辞めて父の手伝いをしようと決意し、1980年(昭和55年)、思いがけぬ形で正幸が伊藤工務店に入社することになる。
1985年(昭和60年)
設計〜施工まで一貫して手がける工務店に
正幸もお客様との打ち合わせ、現場管理、見積り、さらには経理まであらゆることを取り仕切る忙しい日々が始まる。
当時は、工務店といってもまだ設計・施工の会社ではなかった。
規模は大きくなっていたが、得意の施工を中心に行なっており、設計は外部に委ねていた。
そんなある時、親しくさせていただいていたあるお客様から自宅の設計と施工を依頼され、いつも通り外部の設計者にお願いしたものの、お客様と充分なコミュニケーションがとれずに受注を逃してしまうことがあった。
「信頼して依頼していただいたのに、お客様の想いに応えられなかった」
そんな悔しい思いをきっかけに、「これを機に設計も社内で対応して、家づくりに対するお客様の期待にもっと応えられるようになろう」と決意する。
正幸とは高校時代の同級生で、当時は豊橋の設計事務所に勤めていたが、仕事帰りに伊藤工務店に立ち寄っては建築談義に花を咲かせる仲だった。
入社すると、昼間は現場に出て、夜は図面を描くという日々が始まる。
「事務所に寝袋が2つあってね。青が社長で、赤が私でした」
2人で連日事務所に泊まり込んで仕事に打ち込む日々が続き、泊まり込んだ翌朝には、父・正雄が正幸の妻・まち子手づくりのおにぎりや味噌汁を会社に届けてくれた。
こうして、1985年(昭和60年)、伊藤工務店は設計から施工まで一貫して手がける工務店となる。
1984年(昭和59年)
正幸氏の母・房子が癌により死去
現在のイトコーの健康にこだわった自然素材の家づくりのきっかけとなったのがこの悲しい出来事だった。
「私が選んだ家で母が亡くなったんです。本当に辛かった」
それは、正幸の考え方・生き方を根底から変えた出来事だった。
伊藤工務店に入社してほどなく実家を建て替えることになり、大学で構造力学などを学んできた正幸はコンクリートの家がいいと主張した。
だが、思い通りの家ができあがって喜んだのも束の間、入居して1年ほどで母・房子が癌になってしまう。
このとき、深い後悔とともに正幸は「家と健康は関係がある」と気づくことになる。
正幸は、子どもの頃に長期間入院した経験などから、免疫力を下げる抗がん剤による治療には賛成できなかった。
薬に頼らない治療法を求めて民間療法にたどりつくと、病院の協力を得て、家族皆で母の回復を願って力を尽くした。
房子は当初の見立てより長く発病から2年がんばったが、53歳という若さでこの世を去った。
1989年(平成元年)
OMソーラー協会(現・OMソーラー株式会社)に加入
「家はつくることが目的ではないと改めて気づきました。家ができた後、家族がどれだけ愉しく暮らせるかが大切なんです。そのためには、まず健康でなくてはならない。家が住む人の健康を害するなどあってはならないのです」
そう気がつくと、石油製品である新建材を用いた家づくりに対して、大いに疑問が湧いてきた。
それは、世の中でシックハウス症候群が問題になる10年も前のこと。
自然素材の家づくりなどまだほとんど知られていない時代に、健康住宅を求めて手探りで進む日々が始まった。
そこに偶然届いたのが、OMソーラー協会(現在のOMソーラー株式会社)からの事業説明会の案内状だった。
OMソーラーは、太陽の熱を自然の空調として活かすパッシブソーラーシステムだ。
だが、正幸氏が注目したのは、家の中の空気を循環させ換気している点だった。
OMソーラーなら、新建材から発せられる化学物質を含んだ空気を外に出すことができると考えたのだ。
すぐに説明会に参加し、さらに技術系の社員ら10人と共に詳しい説明を聞くと「健康にも環境にもいい」と確信し、OMソーラー加盟を決断する。
1990年(平成2年)
記念すべきOMソーラー第1棟目が完成
ちょうど鉄骨の家を着工しようとしていたお客様にOMソーラーのことを話すと、設計からやり直さなくてはならないにも関わらず賛同していただく。
とはいえ、1棟目は本当に効果があるという自信などなく、真冬の完成見学会でドキドキしながらOMのスイッチを入れると、2日目の朝には驚くべき結果が待っていた。
「あれ、新築のにおいがしない!しかもあったかい!」
想像以上の結果でお客様に喜んでいただいたのはもちろん、見学会に来ていただけた300組を超えるお客様からもたいへん好評をいただく。
正幸は、その後も一貫して、健康に愉しく暮らすための家づくりを追求し続けた。
家ができてからの暮らしこそ大切だとわかっていたから、建築だけでなく、衣食住すべてについて勉強した。
そして、様々なことを学ぶうちに『身土不二』という考え方がすべての根底にあると思うようになった。
身土不二とは「身と土は二つにあらず」、すなわち人の体は住んでいる土地の風土や環境と密接に関係していて、衣食住にその土地の自然環境を活かしてこそ健康に生きられるという考え方である。
古来、人間は地域の木や土、石で建てた家に住み、地域で採れる旬の食材を食べて生きてきた。
ところが、あらゆることが工業化した20世紀後半、わずか数十年の間に私たちの生活ががらりと変わってしまったことが、環境や健康などに様々な問題をもたらしたのだ。
「つまり、家も地域の材料を使って、地域の気候風土に適した造りが一番だ」
正幸は考えるようになる。
このようにして、自然素材とOMソーラーで実現する、健康に暮らせる家・・・・・イトコーの家づくりの軸足が定まった。
1992年(平成4年)
社名を株式会社イトコーに変更。新社屋が竣工する
また同年、新社屋が完成し、落成記念パーティーを開催。
1995年(平成7年)
正幸が2代目社長に就任
2000年(平成12年)
「穂の国の森から始まる家づくりの会」を設立
毎年、山の見学会や植林活動、下草刈り、枝打ちなど地域の森を知ってもらうための活動に取り組んでいる。
また、本章の冒頭でも述べた「教室の空気はビタミン材運動」 は子どもたちに自然環境の大切さを教える活動として地域に浸透しており、2015年には地球温暖化防止活動環境大臣賞〈環境教育活動部門〉を受賞した。
2003年(平成15年)
「エコショップ イトコー」 がオープン
住まいのメンテナンス用品や雑貨、家具、家電など、安心して使えて日々の暮らしに彩りをもたらす商品を取り揃えたほか、企画展や健康講話、子育てカフェなども開催。
日々の暮らしを愉しむきっかけにしてほしいと始まった「暮らし方教室」も好評を博している。
こうした活動を通じて地域の方々と様々なつながりを持つようになると、「イトコーで家を建ててくださったお客様に限らず、地域の人たち皆に、いつまでも健康で毎日の暮らしを愉しんでほしい」という想いが強くなってきた。
「イトコーは皆と親戚のように親しくおつきあいし、暮らしにまつわることなら何でも気軽に相談していただける会社になろう」
そう決意すると、「イトコーマーケット」の開催や地域防災拠点への登録など、地域の暮らしにとことん向き合う会社として、工務店の枠にとどまらない展開へと踏み出す。
2010年(平成22年)
「イトコーモデルハウス」がオープン
ペレットストーブ、雨水タンク、太陽光発電などの設備仕様から軽いトレーニングに使える階段といった設計の仕掛けまで、蓄積してきた理論と最新の環境技術を詰め込んで、環境にやさしく、愉しく暮らしながら健康増進も図れる家を提案している。
2014年(平成26年)
「四季と暮らす家モデルハウス」がオープン
この家はモデルハウスであり、イトコーが考える「健康的で愉しい暮らし」を、「イトコーのこれから」を担う伊藤博昭自らが生活の中で実践する場所でもある。
この場所で、学んだこと・感じたことを、見学会の場などでお客様に伝え、これからの家づくりをより良くしていくために社内で共有したりと、イトコーの家づくりの最前線を行くモデルハウスとして建築された。
2016年(平成28年)
「四季と暮らす家モデルハウス」にGOOD-TIME PLACEを新設
アウトドアキッチンと家庭菜園を組み合わせることで、家族や友人たちと団欒を愉しみながら健康的な暮らしを過ごしていくための場として雑誌「Casa Brutus」から取材を受けるなど注目を集める。
2019年(令和元年)
「リノベーションモデルハウス“コワーキングスペースTOCOTOCO”」オープン
コワーキングスペースTOCOTOCO
ちっちゃな子が、とことこ走り出すような。
そんな姿を見守り、時には後押しし手を携え、夢が動き出す傍らにいたい。
「TOCOTOCO」は走り始める人・走り続けている人を応援します。
2020年(令和2年)
イトコー社屋1階をフルリノベーション
そのために、「働く環境を見直す」ところからスタートし、構想約3年、プロジェクトを組み、多くの意見を出し合い「フリーアドレス制」を導入しました。
「オフィスを広く使い、効率的に」「社内のコミュニケーション向上へ」「地域に開いたオープンスペースへ」
リノベーションされた仕事場で、さらなる地域貢献を目指すべく、イノベーションを起こし、スタッフ一丸となってこの地域に新しい風を巻き起こしていきます。
2020年(令和2年)
博昭が3代目社長に就任
3代目伊藤博昭が社長に就任、100年企業を目指す。